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Supica's room

Supica's room

一 
ある晴れた春の夕暮れ、私は光の無い部屋にひとりうずくまり、窓の向こうをじっと見つめていた。肌をやんわりと包み込むような春の日差しが降り注ぎ、穏やかな風が人々の平和を告げるように吹いていた正午とは打って変わり、空では暗澹たる雨雲が太陽を貪り始めていた。ガラス張りのビルに反射した太陽のオレンジ色の残照は、断末魔をあげるように次第に細くなり、終には儚く消えていった。雨雲は遥か上空から狡猾にその状況を観察し、全ての確認を終えると、ゆっくりとその大きな身体を震わせた。
東京は雨になった。
ぽつぽつと降り始めた雨は次第に勢いを強め、三十分ほどで窓の向こうがほとんど見えないほどになった。容赦ない量の雨粒が窓で弾けては消えていった。しかし、次の瞬間には新たな雨粒が飛び込んでくる。もう誰にも彼らを止めることはできない。
私は立ち上がってキッチンへ向かい、インスタントコーヒーを淹れた。そんなものでもマクドナルドのコーヒーよりは幾分か「マシ」だった。私はコーヒーカップを片手に窓を見つめた。しばらく目を凝らしていると、数え切れないほどの灯が雨に流されながらも、私に向かって懸命に揺らめいているのがわかった。私のマンションの向かいにあれほどの灯があったことを私は知らなかった。気を惹かれたことさえなかった。私は彼らに認められたのだと思った。
僕は雨の中の部屋でとても心地よくなっていた。雨の音が僕の脳味噌を綺麗に洗い流し、空っぽになった空虚な部分にはやわらかな灯の光で溢れていた。僕は窓辺で仰向けなり、全てを捧げる気持ちで目を閉じた。もう僕には見る必要はなかった。次に訪れたのは雨音だった。雨音は的確に耳に滑り落ち、僕の意識の海に波紋を広げた。それは窓で玉砕する荒々しい雨粒ではなく、落ちていく過程の中で雫へと洗練されていた。一粒一粒が異なる音色を持ち、泡が弾けるように頭の中に鳴り響いた。しばらくすると。それはスタッカートのように正確なテンポを刻むようになった。雨音は振り子のように振幅を広げ、さらには膨張し、収縮した。僕の意識は完全にまどろみを帯びたまま意識の海の上を漂っていた。しかし、やがて雨音が限界まで膨張し、無に等しいくらいの収縮にまで至った瞬間、海の中から大きな白い手が現れ、僕の意識を丸ごと鷲掴みし、彼の領海へと引きずり込んだ。僕にはもう抵抗する気力は無かった。そのようなものはとうに雨に流されてしまっていた。僕はその時初めて意識の欠陥による重大性に気づいたのだ。
ほっそりとした五本の指と透き通るような手のひらに覆われた僕の意識は、海の深奥へと向かっていた。時折指の隙間からほっそりとした腕が見え隠れするが、それは果てしなき深海の闇へと繋がっていた。僕は浮き彫りにされた孤独を感じた。そして、それは泡となって僕の体から浮き上がっていった。
灯の揺らめきは姿を消し、雨音はいつの間にか止んでいた。僕の感覚は殻を破るようにまどろみの中からゆっくりと目覚め始め、パズルのように組み立てられていった。突然、それは身を切り裂く寒気に変わった。鋭利なナイフで皮を剥ぐように、僕の身体からは無駄なものが消えていった。白い腕は深く潜るほど次第に透過性を高めていき、結果的には何も見えなくなってしまった。ただ、僕の意識は底へ向かってひたすら堕ちて行った。感覚を取り戻すための代償として、もう一つの世界の感覚が閉じられていくのが感じた。僕は再びあの部屋へ戻るのだ。果てしなく感じた闇の深奥は次第に光が溢れ始め、その姿があらわになっていった。しかし、その姿を僕はもう見ることができない。それはもう閉じられてしまったのだ。光はだんだん凝縮し、やがて横一線の光になった。そして、さらに強い光を発したその瞬間、焼けるような感覚を残して僕の眼は完全に機能を失った。僕はその激しい苦痛に声を出そうと思ったが、より多くの泡が浮かび上がっていくだけだった。
光は眼に刻印を記し、泡は声を引き裂き、雨音は音を運び去った。寒気は次第に眠りを誘う春の香りへと変貌し、僕は再び先ほどとはまったく別のまどろみの中へと堕ちていった。僕は空中に仰向けの状態で浮かび、先ほどとは別の世界の空を漂い、どこかへ導かれていた。それが現実なのか、幻想なのか、真実なのか、僕にはわからなかった。むしろわからないほうが僕にとっての答えのような気がした。たとえそれが便宜的な結果になろうとしても。真の結果などどこにも存在しないのだ。しかし、不可避的な瞬間的場面的結果は誰にも訪れる。大抵それは明確な具体性を伴った形で突拍子もなく現れる。だから、その時もそのくらいのことで終わるだろうと、僕は恣意的に思っていた。僕はゆっくりと眼を開けた。窓に目を向けると空は哀しいくらい澄みきっていた。

中央図書館二階で本を取り、街を一望できる四階のテラスでサンドウィッチとコカ・コーラを頼んだ。五分後、ウェイターは使い古されたカセットテープのような返事を付けて運んできた。僕はとりあえずコカ・コーラを飲んだ。カロリー0の恐ろしさよりに怯えるよりは黙って飲んだ方が楽である。
昨日の雨の匂いを仄かに残したテラスの床は、春光を身体いっぱいに浴びていた。雲は酩酊したように空を漂い、その下で猫たちがあくびをかいていた。テラスから景色を見ていると、この町に訪れた観光客が図書館の隣にある神社へ導かれるように入っていく。人々は複雑に入り組んだ神社の参道を彷徨い、結局ひとまわりしてもと来た道へ戻って行くのである。それは、ありふれた春の午後の光景だった。僕はドレッシングソースがたっぷりとかかったサンドウィッチをたいらげ、本を開いた。
その本は一昔前の著名な作家が書き下ろした自伝に近い小説だった。主人公の男は失念と絶望と懺悔と切望を繰り返し、最後は軽く自殺してしまった。その本の中で、死というものは人生の中のありふれた選択肢の一つとして描かれていた。まるで生の反対が死ではないと言わんばかりに。
主人公の男は、希望と絶望をも捨て去ったあと、雨の日に葉の裏に隠れたかたつむりを見つけたように、首を吊って死んだ。それは、とても流麗で自然的な流れだった。
ちなみにそれを著した三日後、その作家は珍しい小道を散歩するかのようにホームから線路に降り立った。ホームにいた人はそれがごく当たり前のことのようだったため、誰も動けなかった。そして、準急列車に回収できないくらいバラバラに弾き飛ばされた。
僕は死というものは選択肢の一つではなく、生と一体化した何かなのだろうと思った。死ぬということを生きていることではない、という限定によってどれだけの人が苦悩しているのかを考えると、とても心が痛んだ。僕らは生きていながら同時に、全く別の部分で完璧に死んでいる。でなければ生きるということが証明できない。しかし、だからと言って僕にはどうする事も出来ないのだ。僕はおとなしくコカ・コーラを飲んだ。猫たちは、どこかへ行ってしまった。
「早いのね。」とアキは言った。アキは大量の本を腕に抱え、音を立てずにテーブルに置き、僕の向かいに座った。
「そうかな。もう朝十時だよ。君が遅いんだよ。」と僕は言った。
「休日の十時から図書館のテラスで朝食をとる人がおかしいのよ。普通だったら恋人とヤリ疲れた翌日はお昼を過ぎてから目覚めるわ。別に毎日朝早く起きなくたってかまわないでしょう。朝は明日も明後日もちゃんと来るんだから。」とアキは言い返した。溶けた氷が乾いた音と共に崩れた。本当に朝が来ない日をアキはまだ分かっていないのだ。
 アキはオレンジジュースを頼み、カナッペを齧った。ここには、十種類のカナッペがサービスとして各テーブルに置かれ、自由に取って食べることができる。ちなみに、それらはちゃんと他の料理や飲み物から取られている。ここの店は、昨年から週刊雑誌の取材を受け続け、彼女のような小食の女性たちの朝食として人気が出ていた。図書館の上にあるにも関わらず、平日は近くに努める女性たちでけっこうな賑わいがあった。しかし休日になると、とても静かなカフェテリアへと姿を変え、数少ないこの街の住人が朝食を食べに来ていた。ほとんどの常連は互いに顔を覚え、アキもそのような連中の一人だった。しかし、いつの間にか僕らは一緒に朝食を取り、作業をするようになっていた。
僕らは互いに、相手が何者なのかをまったく意識しなかった。彼女から見て僕は毎週日曜日にサンドウィッチとコカ・コーラを貪っているただの男だったし、僕から見て彼女は箍がはずれたくらいの勢いで本を読んでいるただの女だった。しかし、それが僕らの関係を築いている普遍性だった。僕らは何かが噛み合わさっていた。それは、よく話に出てくるような、欠けた部分を補うようなありふれた関係ではなかった。何故なら、我々はお互いに欠けた部分が多すぎて、相手の欠陥を埋めるような部分は持ち合わせていなかったからだ。アキはしょっちゅう財布を忘れたし、僕はよくボタンを掛け違えていた。これはあくまでも比喩的表現だが、我々が欠落している部分はもはや補いようのないものだったのだ。
アキはいつもたくさんの本を抱え、あらゆるジャンルの本を読み漁っていた。恐ろしいスピードでページを捲っていたので、僕はいつか彼女の頭から汽笛が鳴り響いて煙が噴き出るんじゃないだろうかと心配した。もちろん、そのようなことは起こらなかった。
アキは本の要点を纏める能力がとても高かった。意図的に複雑で難解にされた文章や専門用語を、糸を紡ぐように丁寧に再編し、僕に分かりやすく説明した。僕は彼女が発する言葉を正確に聞き取り、それを素早くパソコンへ打ち込んだ。僕の報酬は朝食代だった。しかし、彼女の講義を聴けるのかと思うとこちらから金を払っても良いのではないのだろうかと思うほどだった。それだけ彼女の選ぶジャンルは興味深いものだったし、彼女の言葉は刺激的で魅力的だった。僕は打ち込んだ情報をデータ化し、わかりやすく区分けして、彼女のパソコンへメールした。彼女は何冊かの本をひとしきり語り尽くすと、しばらくテーブルにうつぶせになった。何百年も前からここに佇む神社から力を吸い取っているようだった。しばらくすると、充電完了、とアキは呟く。そして、ポケットに突っ込まれたくしゃくしゃの千円札をテーブルに置き、軽くお礼を言うと、大量の本を抱えて去って行った。僕らの週末の朝はこうして過ぎて行った。僕はアキが一体何のためにそのようなことをしているのか尋ねてみたかったが、それに対する答えよりも、こうして日曜の朝に二人で過ごす時間の方が貴重だった。アキはアキに違いない、それだけが真実であれば良いのだ。
 アキはいつものように本のページを捲り始めた。肘をつき、垂れてくる長い前髪を抑えていた。瞳は素早く上下運動を繰り返し、活発に活動していた。僕はサンドウィッチの皿を下げてもらい、ケースからノートパソコンを出した。そしてそのまま起動せず、僕も先ほど図書館から借りてきた本を読んだ。いつもと変わらない平穏な時間がテラスに漂っていた。
しばらくして、僕はパソコンの電源を入れた。アキが顔をこちらに向けてほほ笑んだ。
「気が利くのね。」
「そんなに難しいことじゃないさ。」と僕は言った。
アキは、パタン、と本を閉じて脇に置いた。そこには既に五冊の本が積み上がっていた。
「じゃあ今日は、『唯物論的死刑論』、『前衛芸術のためのコスモロジー』、『近現代音楽の変遷と堕落について』、『暗渠』、『羊たちの星空』について話すわ。今日は少し長くなるかもしれないわね。時間は大丈夫かしら。」
「大丈夫。死ぬまでにはまだもうちょっとかかりそうだから。心配ないよ。」
「頼もしいわね。私にも分けてくれればいいのに。」
アキは真面目に言っているようだった。
「安売りはできないんだよ。」
「じゃあ、私があなたになっちゃえばその時間は分けてもらえるのかしら。」
「もちろん。時間だけじゃなくて全てを君に捧げるよ。持っていてもしょうがないものがたくさんありすぎて困っているんだ。でも、それが欠けたら恐らく僕は僕では無くなってしまうから少し悩みものだな。まあ、誰も気にしないと思うけど。さあ、さっさと始めよう。」と僕は言った。彼女はにっこりとした笑みで顔に満たし、そして、目を閉じた。
 一通りの作業が終わると、いつものように彼女はうつぶせになった。僕は彼女と僕のアドレスへデータを送信し、パソコンをケースに戻した。そして彼女の規則正しい健康的な寝息を聞きながら本を開いた。彼女はいつになく深い眠りに落ちていた。
 正午を過ぎたあたりで、彼女は目覚めた。店内はこの街に来た観光客で混み始めていた。どんよりした瞳をこちらに向けて、何時?と彼女は訊いた。十二時十三分、と僕は答えた。
彼女はうなだれるように起き上がり、片手で髪を無造作に掻き分けた。そして、バツが悪そうな顔をして、充電未完了、と呟いた。僕はウェイターにオレンジジュースと新しいカナッペの皿を頼んだ。アキは僕に従うようにオレンジジュースを口にし、カナッペを食べた。
「今日は何かあったのか。」と僕は訊いた。アキは何も答えなかった。アキは思い出したようにバッグを漁り、携帯を取り出して、どこかへメールを飛ばした。そして、再びうつぶせになり、すぐに起き上がった。そして僕を覗き込んだ。
「なんで起こしてくれなかったの。」とアキは言った。
「今日は何かあったのか。」僕は同じ言葉を繰り返した。アキは再び黙った。そして、オレンジジュースを飲み、ごめんなさい、と呟いた。アキは財布から千円札を二枚抜き取ると、僕の本に下に挟んだ。そして、大量の本を置き去りにしてどこかへ去っていった。僕は抜け殻のようにひとり取り残された。
 僕は図書館の二階のカウンターに本を返し、アパートへ戻った。僕はコーヒーを淹れ、窓辺の椅子に座り、春のやわらかな雲を眺めた。私は、なんだかいろんなことがよくわかんないんだよ、と宛てもない問いかけを投げかけた。あの雨の日以来、彼らは答えてはくれない。
僕はうんざりして新しい風を入れようと窓を開けると、とある国へ抗議するデモ隊の絶叫が飛び込んできた。そこに表現は無かった。必死になって言葉にすがりつき、私は窓を閉めた。そしてTVを付けると、絶叫している彼らが映っていた。赤い旗を振り、青い旗を破り、互いに似たようなことを叫んでいた。彼らは当然のように、正義で正義を蹂躙していた。僕はTVを消した。そしてひと眠りすることにした。

 男から電話があったのは、それから三時間後のことだった。僕はその一時間前にはすっかり目覚め、カプレーゼをつまみながら窓辺で夕陽をとらえようとうずくまっていたところだった。男は名乗りもせず、いきなり僕にアキの居場所を訊いた。アキの場所なんてもともと知らないが、それを条件に僕は男の名前と職業を聞き出した。男はニシハラと名乗り、大学の非常勤講師で、『抽象的油絵の時代別比較文化考察』という授業でアキに教えている、と言った。
「アキさんがいないんです。家にも大学にもバイト先にも。だから仕方が無かったんです。あなたに電話をかけるしか、アキさんの方法を知る術は無かったんです。どこにいるのか、ほんのささいな糸口だけでもいいので知りませんでしょうか。」とニシハラは言った。ニシハラの声は湿り気を帯び、彼の小さな息遣いが電話の向こうから聞こえてきた。彼が必死に焦燥感を隠そうとしている様子が手に取るようにわかった。
「いいですか。あなたとアキがどのような関係なのかは知りませんが、どうして僕の電話番号までもあなたが知っているんですか。あなたはバイト先までの番号を知っているんでしょう。なら僕より先に電話をするべき相手がいるじゃないですか。なのにあなたは僕に電話をしてきた。一体どうしてですか。」と僕は言った。ニシハラが大量の唾液を飲むのが聞こえた。受話器を持ち替えたようで空気を切る音も聞こえた。彼の心の動揺は抑えきれないくらい膨れ上がっているようだった。
「どうして、と言われましても閉口するしかありません。しかし、それは私とアキさんの中が不純なる関係で結ばれているということではありません。講師と生徒、それだけの限定的な関係です。ただ、世間一般で考えられるような関係とは若干異なりますが。あのようなペラペラの関係ではございません。」ニシハラは再び受話器を持ち替えた。ニシハラのずっと後ろの方からデモ隊の絶叫が風に乗って聞こえてきた。それは次第に大きくなっていった。しかし、ニシハラはそんなことには全く気付く様子も見せず、話を続けた。
「あなたの電話番号は今日アキさんの家の電話帳を見させてもらい、それでわかりました。そこにはバイト先の店の番号と――さん(僕の名前)の番号しか載っていませんでした。分厚いアドレス帳に、たったの二件です。だから私はまずバイト先の店に電話をし、彼女がそこにいないことがわかってからあなたに電話をかけたのです。要するに、意図的にかけたのではないのです。ですから、本当にアキさんがどこにいるのかご存じないでしょうか。どうしても今日中に連絡を取らなければならないのです。」
 僕はしばらく黙って男の言葉を噛み締めた。当然だが、男が言っていることはどこかおかしい。もちろん僕はアキの居場所なんて知らないが、今日の午後にアキがどこかへ行こうとしていたという予定までは知っている。家の場所まで知っている彼ならば、その予定がどこであるかなども分かっているのではないだろうか。しかし、アキがその予定や、予定の目的地をニシハラに教えていないということは、アキには教えたくない理由があるはずである。はたしてそれは、僕の考えすぎなのだろうか。
「とりあえず、僕はアキがどこにいるかなんてことはわかりません。とりあえず、メールアドレスを知っているのであなたが探しているということをアキにメールしておきます。」
「ただ、当人がいないのに家に入るなんてどうやったんですか。」と僕は訊いた。するとニシハラは急に呼吸を整え、そこから消えた。いや、彼がそこにいるのは呼吸音でわかる。しかし、どうしようもないくらいはっきりと彼の生気が消えた。そして、先ほどとは全く違う冷淡な声で、どうしようもなかったんです、と紙くずを捨てるように呟いた。言葉の内容は先ほどとさして変わらなかったが、声の雰囲気はすっかり変わり、なぜかデモ隊の絶叫も背後から消え去っていた。最後に、ニシハラは自分のメールアドレスを僕に告げ、夜の闇の中でひっそりと潮が引くように電話を切った。受話器を置いて気付いたが、僕の手はしぼりとれるくらいの汗でぐっしょりと湿っていた。僕は洗面所へ向かい、十分過ぎるくらい丹念に手を洗った。しかし、そのニシハラの生々しい感触はそれからしばらくの間消えることはなかった。
 その夜、東京の空は雲ひとつなく、風もなく、心の隙間に入り込むような静寂に包まれていた。僕は早めに風呂に入り、玄関に置いてある山積みにされた段ボールからジンジャーエールの瓶を出して飲んだ。これは飲食店を経営していた友人がくれたもので、店が潰れた時に形見のような形で売ってくれた。とても辛い。
 ジンジャーエールを飲みながらアキにメールをすることを思い出した。それまで、僕の頭の中にはニシハラの冷淡な声と不可思議な感触が染みついていて、メールのことなどすっかり忘れてしまっていた。とりあえずニシハラには黙っていた彼女の携帯の電話番号へ電話し、予想通り繋がらなかったので、ニシハラが君のことを探している、というメールを送った。彼女にメールを送ったのはこれが初めてだった。僕の打ち込んだ言葉が、街や海や空を飛び越えて彼女へ届くのを思い浮かべると、とても不思議なことのように思えた。僕はボタン一つでとんでもないことをやっているのではないだろうか、とまで思った。夜が更ければ更けるほど、東京の夜の空に文字が駆け巡るのだろう。それは、とても素敵なことのように思えた。










 二 一人称を私に変える
  私は泡の中でうずくまったまま東京の夜の空を漂っていた。泡の中には虚無的な哀愁が満ち満ちており、当然の如く私は思い切り落ち込んでいた。東京の灯の光は人為的に粉々に砕かれ、夜の闇に解き放たれていた。下劣な光は自由を謳歌するかのように空を飛び回り、さらなる高みへと飛び立っていった。私たちはいつまでこうしてメッセージを送り続けるのだろう。星たちの光はさざ波のように揺れて、悲しみを地上に染み込ませていた。私に見えるのはそれらが混ざり合って滲んだ濁った光だった。しかし、私はその光の美しさに言葉を失っていた。思考も止まっていた。身体は震えていた。涙は出なかった。ただ、泥のように濁った私たち人間のその歪な美しさに心を揺さぶられていた。
うなじのあたりに白い手の気配を感じた。白い手は氷のように冷たかった。私はそれに気づいてしまったことを瞬間的に後悔した。悲しみにはできる限り気付かない方が良いのだ。しかし、悲しみに慣れることも同時にあってはならないのだが。
それまでの虚無的な雰囲気がさっと消え、私の周りには霧のような白い気体でいっぱいになった。さらに時間が過ぎると僕の身体は全く見えなくなっていった。私は再び身ぐるみを剥がされ、無防備な感覚だけになった。白い手は長い間うなじのあたりを年老いた妻のように愛撫し、それから私の体へ侵入した。私は前回と同じようにそれを明確に感じていた。すらりと細長い五本の指は、何かを確かめるように私の身体の中を這いずりまわった。五本の指はそれぞれが生き物のように動き、情報を事細かに交換していた。彼らが私から何を掬い取ろうとしているのか全くわからない。ただ、それらが尋常でない量の情報であることは、薬をキめた異常者のような激しい動きから推察ができた。彼らは何度か無理やり皮膚を破ろうとしていた。私は、そこには黄昏のような絶望しか無いのだ、と彼らに言いたかった。しかし、どうせ言ったところで彼らは耳を貸さないだろう。私にとっての気休めにもならないだろう。いずれにせよ、とても哀しいのだ。
白い手は私の全てを貪ると、背中から出て行った。彼は満足したようで、腕が少しばかり膨れていた。しかし、それとは対照的に指は未熟児のように収縮していた。さらに、仲指と薬指の爪は剥がれ、親指の爪はかろうじてぶら下がっていた。彼らを心配すればいいのかどうかなんて私にはわからない。ただ、それがとても痛々しく思えたことは真実である。
次に白い手はその未熟児的人差指で空を指差した。空には巨大な満月がぽっかりと浮かんでいた。満月が太陽に反旗を翻し、夜空を呑み込もうとしているようにも見えた。夜の支配者は私なのだと言わんばかりに。昇る光が私の頬をかすめていく。周りを見回すと、縦横無尽に飛び回っていた東京の灯が、満月に吸い込まれていた。いや、それは満月への従属と表現した方が正しいかもしれない。彼らはすっかり大人しくなっていた。
左目から何かが落ちた。涙だった。一粒の涙は夜露の様にポツリと零れた。その途端、私の中で何かの箍が外れた。涙はあっという間に左目に溢れ、洪水のように流れ始めた。ダムが決壊した時のような暴力性を帯びた大粒の涙たちが泡に染み込んでいった。白い手は空を指している。涙は止まらない。私は左目を抑えた。私は異変に気付く。何かがおかしい。眼球が眼窩からいくらか飛び出しているのだ。それは涙によって酸素を奪われた眼球の苦しみを表しているようにも見えた。眼球はその膨らみを増し、瞼は千切れるくらい広がった。白い手は空を指している。私の意識は、ずるりと落ちる眼球への不可避的な恐怖と、とめどなく溢れ落ちる涙への不可逆的な眼球とはまた別種の恐怖で混沌と化していた。私は苦しさの余り右手で白い手を掴んだ。しかし、白い手は表情を変えない。奇妙なほどに小さな指が空を指している。それによって私は泡の上部が溶けていることに気づく。私は東京の空を漂っている。眼球は既にほとんどの部分が飛び出ている。それをかろうじて繋ぎとめているのは、生物特有のあらゆる管たちである。しかし、その管たちもゴムが切れるような音をたてて、勢いよく弾けていく。泡の熔解部分が側面まで降りてきている。東京の春の夜風が僕にあたってく。光が頬を掠めていく。白い手はもういない。私は崩れるように倒れ、その衝撃でついに眼球が転げ落ちた。眼球はコロコロと転がり、意思が生まれたことを示すように泡の中央でぴたりと止まった。僕の左目は真っ暗になった。いや、闇さえもう見えない。そして宿命的に眼球は光によって打ち砕かれた。破片が粉末になって飛び散り、風がどこかへ運び去っていった。それは一瞬の出来事だった。泡の膜は完全に消えた。私は光溢れる東京の街へ堕ちていった。アキがどこかで私を呼んでいた。その声さえも光は打ち砕き、私は強烈な眠気に身を任せた。

ニシハラの電話から一週間が過ぎた。私の日常は何も変わらず、高層ビルの間から流れゆく人々を眺めていた。彼らは空なんて全く気にしていなかった。ひとつ、私にとって重要だったことは、店を潰した友人から電話があったことだった。私たちはとりあえずの近況を報告し合い、週末に会うことになった。友人は再度新しい店を出すつもりで、それについての相談を聞いてほしいと言っていた。私は喜んでその申し出を受けた。アキからの連絡は未だ無いまま、私は図書館へ向かった。いつもと同じようにサンドウィッチとコカ・コーラを飲みながら本を読み、アキがどのような服装で現れるのかを想像した。彼女はいつも落ち着いた色のワンピースを着て、カーディガンを羽織っていた。身長は百七十近くあり、腰まで伸びたまっすぐな髪を持った彼女はどうしたって目立っていた。
私が初めて彼女を目にした時、彼女は空間から浮き彫りにされた彫刻のように思えた。しかし、誰もその異変には気づいていなかった。カップとソーサーの触れ合う音が店内に木霊し、それを纏うようにアキはそこに座っていた。今と同じように分厚い本をテーブル広げ、何かを求めるように真剣な目つきでページを睨んでいた。アキはほとんどの日曜日の朝をこの店で過ごしているようだった。それくらい、アキはとても店に馴染んでいた。私は導かれるように彼女の座っている前のテーブルに座った。私は彼女の存在を強く背中に感じることができた。その感覚は熱へと変わり、背中のあたりが落ち着かなくなった。彼女に見られている、と私は確信した。途端、私は無意識的に焦って現実を探した。その時のコカ・コーラの氷はいつもより早く溶けていた気がする。そして、スローモーションのように、グラスに差し込まれたレモンがくたびれたように体を曲げ、真っ黒な液体の中へと落ちていった。氷が乾いた音をたてた。これは現実である。不毛なる私の脳みその退嬰が生み出した、虚無的な妄想ではないのだ。彼女は幻想ではなく、確かに私の後ろに座り、私を舐めるような目線で―さらには目元に笑みを浮かべながら―、こちらを見ている。 
短絡的過ぎたのかもしれないが、その時私の心は震えていた。私は彼女から零れおちる真珠のような印象を必死になってかき集めていた。ページの捲れる音を拾い、絹の擦れる音を拾い、彼女の何気ないため息を拾った。私は既に彼女の本に嫉妬していた。ひとつひとつの文字へ注がれる鋭い視線を私も浴びたかった。私はどうしようもなかった。あと一目でも彼女を見ておきたかった。そして私の印象の彼女と真実の彼女の確認をしたかった。私は何気ない様相を繕いながら、珍しい内装の店を観察するように後ろを振り返った。しかし、アキはそこにはもういなかった。そこには彼女の薄いピンク色の口紅が付いたコーヒーカップが翳りを浮かべて佇んでいただけだった。
翌週、彼女は自然の流れに身を任せるように、僕の座っている前のテーブルに向かい合う形で座った。そして、こちらを見てかすかに笑みを浮かべた。そのかすかな微笑みは、彼女が私の望んでいるものを全て知っているような暗喩が込められているような気がした。そして、その捉え方は正しかった。その次の週、彼女は私の向かいの席に座った。
「あなた、いつも何の本を読んでいるの?」
もちろん、それは借りてから三週目の本だった。

しかし、今日その言葉を私に投げかけたのは別の人間だった。病的に細長い脚が本とテーブルの間をさっと横切り、私が顔を上げると奇妙なほど折れ曲がった大きな鼻を持った男がこちらを覗きこんでいた。私は驚いてそのままひっくり返りそうになるのを辛うじてこらえた。男は私に何も言わずに席に着いた。男はウェイターを呼んでカプチーノを頼み、カナッペを口へ放り込んだ。削がれたような頬に浮き出た頬骨の中で、カナッペの断片が見え隠れした。
「こんにちは。始めまして。カギハラと言います。」と男は言った。そしてポケットから携帯用灰皿を出した。カギハラは私の存在を特に気にしないまま煙草に火をつけて、体に蓄積された汚れを吐き出すように息を吐いた。不思議と私の心まで軽くなった気がした。
「アキの知り合いですか?」と私は訊いた。男は煙草をくゆらせたまま、店内を眺めていた。そして、何かに終わりを告げるように、トントンと煙草の灰を落として携帯用灰皿の中に入れた。
「厳密にいえば、ニシハラの知り合いです。アキさんのことはよく知っています。だけどそれは間接的なものであって、本当のアキさんのことは全く知りません。でも、でも、いろいろ知っています。これは矛盾していますね。まあ気にしないでください。とりあえず、一人の人間を知らないということは、一つの死なのかもしれない、ということですよ。お分かりになりますか。」とカギハラは言った。私には分かろうとする意志も湧かなかったので、その言葉を留保した。
「ニシハラがアキさんの家で待っています。今から車に乗ってそこに行きましょう。いろいろ話したいことがあるそうです。」とカギハラは言った。
「話ならわざわざニシハラさんの家まで行かなくてもできる。携帯もあるし。図説付きで店のファックスに送ってくれたっていい。」と私は言った。私にはこれから友人との大切な約束があるのだ。しかし、私は心のどこかで平静を装っていた。
「それではだめなのです。ニシハラはアキさんの家でしか見せられないものがある、と私に言ったのです。ニシハラからしてみればアキさんが消えちゃったこんな大変な時に、わざわざあなたに割いている時間なんて本当は無いのです。だって現にあなたは電話で知らないと言っていましたし。だけど、どうしたってこれはあなたがいないと進まない話になってしまった。」
「僕らの頭を差し出したってそれはまったく動こうとはしないのです。予兆さえ見せてくれません。だからあなたの助けが必要なのです。いや、あなた自身が必要なのです。アキ自身はシャボン玉が弾けるように消えてしまったけど、そこにはまだ副次的アキが残っていて、あなたが来るのを待っています。こんなことをこんなところで言ったってあなたにはとんちんかんな話にしか聞こえないでしょう。でもそれは本当のことなのです。ニシハラは押しつぶされそうな重圧に耐えてあなたを待っています。そして、それ以上に副次的アキさんがあなたを待ち望んでいます。どうか、私の車に乗っていただけませんか。あなたの望む時間にはちゃんとここへ戻ってきます。それは私の折れ曲がった鼻にかけて誓います。」
 私は彼の顔を見た。鼻はいわゆる鉤鼻というような形で、根元は太く先端は鋭く尖っている。そして真ん中の部分でS字に折れ曲がり、そこには過去にぶら下がった激しい衝突の痕跡が残っていた。鼻の上に申し訳なさそうに配置された小さな眼は、ほとんどの部分をまっ黒な瞳孔が占めており、目が動いてもどこを見ているのかがほとんどわからなかった。ぶら下がった鼻の下には真一文字に結ばれた色素の薄い唇があった。まるで生まれる時にどこかの神様が色合いに失敗してしまったかのようだった。そして、輪郭にとって不都合に飛び出た頬骨と、それとは対照的にかわいそうなくらい削られた頬の肉が、顔の各部位の不釣り合いなバランスをなんとか保っているように見えた。
「それはアキのことだけなんですね?」
「もちろんです。私たちに干渉する必要はまったくありません。アキさんのために来てやってほしいのです。」
「わかりました。行きましょう。ただし、夕方にはここに戻らせてください。」と私は言った。カギハラは不完全でぎこちない笑みを浮かべ、カプチーノを一気に飲み干した。そしてソーサーにカップを置いた。
 近くの駐車場に止めてあったカギハラの車に乗り、見たことも無いような小道を曲がり曲がって、雲を超えるようなスピードで高速に乗った。カギハラは手慣れた手つきでハンドルを回し、次々と車をかわした。とても滑らかな走りだった。同時に、時間が過ぎるごとに、私の彼らへの不安は大きくなっていった。
「アキの家はこんなに遠いのか?」
「そうです。」
「アキは毎週この距離を越えてあの図書館まで来ていたということか?」
「そうです。」
「まるでアキがいなかったみたいじゃないか。」
「そうです。」
「どうしようもないな。」
「申し訳ございません。」
窓から見える空はなんだかよそよしかった。

 一時間ほど経った頃に車は急に止まった。私は眠りに落ちかけていたので激しく額を座席にぶつけた。そこは欝蒼とした竹藪に囲まれた小さな空き地だった。笹の葉が天蓋のように空を覆い、太陽の光をほとんど遮断していた。
「到着しました。アキさんの家はここから歩いて十分ほどのところにあります。降りてください。」とカギハラは言った。車から降りると、カラスのけたたましい鳴き声がいっせいに起こった。しかし、彼らの姿はどこにも見えない。音の無い光が砂利道をそっと照らしていた。カギハラは歩き出し、私はあとに続いた。
十分ほど歩くと、十九世紀のヨーロッパ建築のような一軒家が、時代から放り出された形でひっそりと佇んでいた。竹の侵略から身を守るように設置された塀のほとんどは崩れており、玄関の長いアーチ状の天蓋がその家の歴史の長さを表しているように見えた。家の壁には大量の蔦がからまり、派生する血管のようにいくつもの皹が走っている。門戸の片方はひしゃげ、長い風雨にさらされた痕跡をしっかりとその身に残していた。私が立ち止まってぼんやりと家を観察していると、カギハラが近づいてきた。
「こちらです。正門は鍵穴が狂っていてもう開かないようなので、裏口から入ります。」と言って、カギハラは家の裏に回る道を進んだ。
「これが、アキの住んでいた家なのか?」と私は訊いた。
「そうです。どうやら借家のようなのですが、持ち主が未だにわかりません。もしかすると廃屋をこっそりアキさんが拝借していたのかも知れません。まあ、中の様子を見ればわかりますよ。」とカギハラは言った。
 家に入ると、さっそく床の軋む音が廊下に響いた。肥溜の中で産声をあげたようなその音に、私はもう戻れないかもしれない、と思った。家の中は真っ暗で、わずかに差し込む日光が主人に置き去りにされた家具たちに長い影を作っていた。家の中央には螺旋階段があり、それを部屋が囲むように建築されていた。カギハラは他の部屋には見向きもせず、説明も入れず、ただ螺旋階段を上った。温かかった春の雰囲気がとても懐かしかった。
家には四つの階があり、最上階の一室からは人工的な光が扉の下の隙間から漏れ出していた。カギハラは扉の前に立つと、正しい間隔を開けて五回ほど扉をノックした。五回目のノックが終わるのと同時に、鍵が回る古びた音が家中に響いた。そして扉は焦らすように甲高い悲鳴を挙げて開いた。
部屋の中央には小さな丸テーブルがあり、その上には電源の入ったパソコンが置かれていた。そしてその横に、ニシハラであろう人物が画面を睨んでいた。鍵を開けたのはいったい誰なのだろう。その疑問を無視するかのようにカギハラはその人物に向かって歩き、背後でぴったり止まった。しかし、ニシハラなる人物は全く振り向かない。まるで何事も起きていないかのように相変わらずパソコンの画面を睨んでいる。とりあえず私は部屋に入り、扉を閉めた。男はこちらに振り返った。男は私をじっと観察した。カギハラは跪き、男の片足にすがりついた。男は彼に目もくれないまま、ペットを撫でるようにカギハラの頭を撫でた。カギハラは眼を瞑り、啓示を受けるような表情で何も反応しなかった。彼らは暗闇に潜む一対のモニュメントに思えた。
私から彼らに話すことは本来ならば何もないはずだった。しかし、その不思議な光景に私の口はいつの間にか糸がほつれたかのように緩み、すっかり準備が整ってしまっていた。今ならば私の人生の下らない秘密など簡単に口に出してしまえる。私は歯茎にぶら下がった乳歯のように、逼迫した状態で平静を装うしかなかった。
「私が――です。アキのこととはなんでしょうか。」私は私の言葉であったことを頭の中で反芻した。

「これだ。」男は名乗りもせず、ノートパソコンを顎で指した。男は最小限の動きしか見せない。ノートパソコンには何も表示されていなかった。「ごみ箱」等の基本的なアイコンも無く、ツールバーも無く、ただダークブルーの無機質な色がひたすら載っているだけだった。
「これが、なんですか。これがアキの残していったメッセージということですか。」
「そうだ。」と男は言った。男はカギハラへの愛撫を止めた。そして次の瞬間、カギハラの顔面に思い切り膝を入れた。カギハラはそのまま後ろへ転がり、何も入っていない本棚に突っ込んだ。大量の埃が粉塵のように光の中を舞った。カギハラは反動で前のめりに倒れ、尻を上げたままうずくまった。必死に声を押し殺しているようで、背中が震えていた。私は何もできなかった。許されないことのように思えたのだ。
「早く動かせ。」
 カギハラは急いで立ち上がり、ノートパソコンのキーボードを叩いた。彼は運転していた時のように、とても流麗にキーボードを打った。しばらくの間、私と男の間には彼のキーボードを叩く音が防壁のようになって存在した。しかし、男の視線を拭い去ることはできなかった。カギハラの手をよく見ると、右の小指が一本足りなかった。それは途中でポキリと取られてしまったような痕ではなく、生まれる前に決められたことのように思えた。それくらい何の変哲もなくそこに馴染んでいたので、私は今まで全くわからなかった。
 カギハラは打ち終わると、全精力を使い果たしたように膝をついた。すると、横に立っていた男は私への視線を切り、カギハラを見つめ、母親のように抱きしめた。それは真実の母性のように見えた。男が手をほどくと、カギハラは立ち上がり部屋を出ていった。すれ違う際に見たカギハラの顔には、憂いとも愉悦とも捕えがたい不思議な表情で濁っていた。大きな鼻からは鼻血が一筋垂れていた。部屋には私とニシハラなる男とノートパソコンが不自然なまま存在していた。どこかで換気扇のカラカラと回る音が聞こえた。
 男の顔は窓からの逆光でよく見えなかった。私に与えられるのは型にはめられたようなくっきりとした輪郭と、幾分か後退した短髪のイメージと、トーンが落ち込んだような男の顔の中で蠢く二つの眼球の動きだけだった。男はスーツを着ていた。足元からは長い影が伸び、床の木目の中に溶け込んでいた。
 ノートパソコンの画面は赤黒い色に変わっていた。そして、無意識のまま私はパソコンの前に立っていた。そして、私の人差し指はENTERキーを押す寸前のところで止まっていた。男は当然のように私の隣に立っている。男の顔は見えない。男はもう何も語らない。私にはそれがわかる。そして、私がしなければならないことが分かる。私はENTERキーを押さなければならない。しかし、私は寸前になって私が私であったことに気づく。私の指は止まる。遠くから換気扇の乾いた音が私を問い詰める。何故押さないのか。何故進まないのか。男は動かない。いや、男は既に私の肩を掴んでいる。肩には骨が折れまがってしまうくらいの強い力がかけられている。男の眼が動く。男の瞳は光を呑み込み、何の色も浮かんでいない。ただ、その眼が私を捕らえて離さない。私の呼吸はすっかり止まっていた。もしかすると、時間が先に進むための必要な時間よりも短いことなのかもしれない。しかし、男は時間の干渉を許さない。私の足元から感覚が分解されていく。私はこの部屋に宙吊りにされたような気がした。私はENTERキーを押した。

 船の帆が揺れている。海岸沿いに並ぶ海の家はオレンジ色に染まり、懐かしいあの夏の記憶をどこかに漂わせている。もう潮風も吹かない。さざ波が名残惜しそうに濡れた痕を残し、身を寄せ合う防砂林は何も語らない。まるでこの世の終わりみたいだな、男は素直にそう思った。
空が焼けるように紅くなっていく。男の旅愁さえ灰にしてしまいそうなくらい。男は防波堤に座って夕焼けを眺めた。まだ大丈夫だ、と男は自分の身体に確認した。まだ耐えられる。
男は日が傾く頃になるといつもこの防波堤を訪れた。それは、男の黄昏への恐れからのどうしようもない習性だった。何もかもを悲しみの虚無へと陥れる黄昏のあの光を恐れた。眩しいくらいの刺さるような光さえもまるで死を暗示させるように空の上で朽ち、月への憎悪を振りまいて沈んでいく夕陽を恐れた。碧雲は翳りを宿し、碧海は無明の深淵を宿した。黄昏を恐れるあまり、男はそれを確認しなければ気が済まなかった。そして、それが平穏のままに済むことを誰よりも祈っていた。
陽は水平線の向こうへと沈み、空には僅かな残照が残されているだけとなった時、男は再び立ち上がった。男は今日も同じように夜が来ることを確信した。男にとって夜闇は恐れるものでなかった。生まれた頃から生活してきたここら一体の地理が市販の地図等が及ばないくらいの正確なものとなって頭の中に入っていたし、家まで戻る道は既に肉体の一部のようだった。それよりも、男が夜を恐れなかったのは黄昏のような果てなき悲しみがそこには無かったからだ。平屋が建ち並ぶこの小さな町で、穴を開けたように浮かぶ夕陽を見ていると、男はたまらなく寂しくなった。死して失う自分の意志を悔しみ、そして悲しんだ。その苦しみが増せば増すほど、過去の暖かな人間の温もりを現実のものとして男は感じた。それは現実を超えた創り出された現実だった。しかし、その旅に男は愚かな過去の過ちを呪い、自ら井戸の中へと身を投げた自分を呪った。男はひどく孤独だった。孤独とはまるでドーナッツのようだ、男はそう思った。 
 完全なる闇夜はなかなか訪れなかった。陽はまだ残っていた。男はしびれを切らしたように、猥雑な頭をかきわけた。しかし、男を狂わすように、一向に陽の光は消えない。今日は早く来すぎたのかもしれない、と男はわかりきった甘言で自分を励ました。こめかみの辺りはピクピクと痙攣し、口元はひきつっていた。男は眼を逸らす。向こうの砂浜に見える閉じきった海の家を一瞥し、さらに向こうの灯台を見た。灯台には既に灯は点き、夜への準備は万端だった。流れるように視線をよこへ移し、男の住んでいる小さな町を確認した。町にもぽつりぽつりと灯が点き始めている。蛍光灯の味気のない色が確かに輝いている。男はその光を頭に焼き付けるようにしばらく見つめ続けた。夜は確かに近づいている。すぐ目の前だ。少し目を瞑っていれば、何事もないように辺りは闇に満ち、いつもと同じように電灯のほとんど無い夜道を戻るのだ、と男は思った。男は切れかかったゴムのような感情をいくらか落ち着かせ、再びゆっくりと視線を陽に戻した。
 男は混乱した。いや、ただ一言で混乱と描写するのはいささか短絡過ぎるのかもしれないが、男はとても混乱したのだ。それは次に明確な行動によって表わされた。男は足を踏み外して地面に激突した。しかし、男は全く痛みを感じなかった。弾力のあるマットに音もなく倒れこんだだけのように思えた。男はすぐに上半身を起こし、自分の身体を確認した。すると、黒い斑点が地面に落ちているのを見つける。男は皺の深く刻まれた手で、頭を触った。手にはべっとりと血糊が付いていた。そして頬には伝っていく液体を感じた。男の心は全くぶれなかった。そんなことよりも男はすぐ立ち上がって確認しなければならなかった。これまでのすべてを否定し得る、見てはいけないものを男は見てしまった気がした。しかし、その時は、まだ心の中で激しい葛藤が沸き起こっていた。その葛藤はある種の救いを男に見出していた。男の心は千切れた布のようにはためいていた。
 男は立ち上がった。そして縁に手をかけて防波堤に乗った。男は空を見た。傍から見れば、それは先ほどとまったく代わり映えのしない空だった。陽は同じように水平線に沈み、取り残された陽がぼんやりと空に漂っていた。男の住んでいる町の人々は何も気づかなかった。いつものように町にはどの家にも夕食の音が響いていた。ただ、それだけだった。しかし、男ははっきりとそれを目にした。
 男は、水平線の向こうに本来ならば肉眼では確認できないほどの小さな炎の揺らめきを見た。それはまさしく陽の光だった。男の体はその場で止まった。男にはあれほどうるさく耳に響いていた心臓の音などもう聞こえない。黄昏は男を覗くように再びその身体を現したのだ。オレンジ色の陽はゆっくりと海を侵食する。陽は影のように細く長く伸び、男に向かって海を越えてくる。
 空は明るかった。夕焼けのオレンジ色どころではなく、閃光のように輝いていた。そこにはまるで空の青さが入り込む隙間がなかった。男は光輝く空を目にした。



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